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四旬節がはじまりました [教会関係]

昨日は武蔵野教会で行われた「聖灰水曜日」の礼拝に出席しました。

毎年、この日の礼拝で読まれる聖書の一つに、ヨエル書2:13「衣を裂くのでは無く/お前たちの心を引き裂け/あなたたちの神、主に立ち帰れ」というみ言葉があります。この聖句は今年のローズンゲンで1/10に選ばれていたみ言葉でもありました。

ローズンゲンの良さは、聖句が短いということだと思います。その分、その聖句の置かれている文脈からは切り離されてしまいますが、それがかえって自分の置かれている状況との結びつきへと、思いが誘われるのではないでしょうか。黙想とは思い巡らすこと、と捉えるならば、正にうってつけだと思います。

話は変わって、下の写真は武蔵野教会の紫の典礼布です。

     


真ん中のIHSはギリシャ語で「イエス」を表す綴りの最初の三文字です。
その文字の上には王冠、下と真ん中には茨が描かれています。
このことからも私たちの王は荊冠をかぶられたお方であることが分かります。

聖灰水曜日には、前の年の「棕櫚主日」にもらった棕櫚の葉の十字架を焼いて作った灰を額に、「塵にすぎないあなたが、塵に還ることを心に留めなさい」という言葉と共に十字に塗ってもらいます。これは創世記3:19の言葉からきています。

昨年は丁度、聖灰水曜日が終わって四旬節に入った直後に、あの東日本大震災が起きました。
まさにこの創世記3:19の言葉が、重く響いたことでした。今年の四旬節は、昨年の出来事に思いを寄せながら主の御受難を思い巡らしながら過ごしていきたいと思います。

S神学生の武蔵野説教デビュー [教会関係]

2/19は顕現節の最終主日で、変容主日でもありました。

武蔵野教会では、昨夏から実習神学生として奉仕をしてきたS神学生が説教デビューを致しました。夕礼拝では月一回担当してきたS神学生ですが、朝の主日礼拝は「初」ということで、礼拝前は笑顔の中にも少し緊張が伺えました。



説教では、初めてと思えないほど落ち着いて、ゆっくり丁寧にメッセージを語っていました。

私も感じたことですが、説教者・牧会者はやはり聴衆によって育てられるんだなあという思いを強くしました。どこの教会でもそうですが、特に武蔵野教会は神学校教会としての歴史もあり、ルーテル教会の中でも特に、神学生を育てるという意識が強い教会だと思います。この教会で実習できたことを本当に感謝したいと思います。



この日の生花はW姉が活けて下さったものですが、変容主日をよく表した素晴らしいものだと思います。白で統一された色は、典礼色を表しています。そして地上で主イエスとモーセとエリヤが話をしていたという出来事が下部の三輪が表しており、と同時に天へとつながっていることが上部の花が表現しています。昇天主日でも使えそうな構図ですね。でも昇天主日だったら、下の三輪は白でない方が良いかもしれませんね。


またこの日は、午後3時から市ヶ谷で首都圏牧師・代議員会も開催され、神学生はその裏方奉仕の機会を与えて頂きました。次は、2/26の「神学校の夕べ」、3/4の「按手式」、3/20の教区総会と幾つかの大きな出番が目白押しです。

主の洗礼日 [教会関係]

1/15は主の洗礼日を覚える礼拝でした。

下の絵は、メニヒ神父のブログに掲載されてたものを転載させて頂きました。
先週は、この絵を携帯の待ち受け画面に設定して、折に触れて黙想をしました。



今回、説教を準備するにあたり、改めて、主イエスがなぜ罪人の一人として洗礼をお受けになったのかを考えさせられました。そこで示されたのが、主イエスとは誰よりも罪というものと真剣に向かい合われた方であったということであります。罪人との「連帯」、と言ってしまえばそれまでですが、その連帯は本来あり得ない出来事であったのです。

マルコは、わずか三節で主イエスの受洗を述べています。しかし、どの福音書よりも鮮やかに、衝撃的にその出来事の深い意味を表していると思うのです。

いつものように、説教原稿を下記にアップ致しましたので、どうぞご覧下さい。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/ayutaro/Message20120115.pdf


顕現主日 [教会関係]

今日は教会暦で顕現主日と呼ばれる日でした。

西方教会(カトリックやプロテスタント)は4世紀初頃から、冬至である12月25日をクリスマスとして祝うようになりましたが、東方教会(いわゆるギリシャ正教やロシア正教等)では、1月6日の顕現日を2世紀末頃から守ってきました。

ですから、教会でのクリスマス飾りなどは、この期間をクリスマスとして、顕現主日まで飾られようになったと思われます。

さて、本日の福音書の日課は、聖劇でも良く知られているマタイ2:1~12の「東方三博士の礼拝」の箇所です。
下の絵は、昨年のクリスマスカードとして買ったものですが、とてもきれいで気に入ったので手元に残しておいたものです。



聖書には博士達は三名とは書いていませんが、「黄金、乳香、没薬」と贈り物が三つだったことから三名と考えられてきました。後の時代になると「カスパール、メルキオール、バルタザール」と名前まで付けられるようになりました。また、この三名は全世界の代表という意味合いも込められ、カスパールは黒人の若者、メルキオールは壮年の白人、バルタザールは初老のアラブ人(黄色)で描かれるようになりました。上の絵でいうと、右端がカスパール、真ん中がバルタザール、左端がメルキオールということになるでしょうか。

ところで、二十年ちょっと前に、ドイツのケルンに行った時、ケルン大聖堂には三博士の聖遺物があると説明されました。またドイツでは博士達ではなく、「三人の聖なる王様達
"Heilig Drei Koenige"」と呼ばれているようです。そんなこともあるのでしょうか、ケルン市の紋章には三つの王冠が刻まれています。





今日の説教原稿は下記にアップしてありますので、興味のある方はどうぞご覧下さい。

http://www014.upp.so-net.ne.jp/ayutaro/Message20120108.pdf

紫の典礼色 [教会関係]

今週からいよいよ、主の御降誕を待ち望む待降節(Advent)の期節となりました。

教会暦も新年となり、マルコ福音書を中心とするB年が始まりました。

特にB年はそうなのかもしれませんが、待降節の日課は第1主日でエルサレム入城を取り上げた後は、三週とも洗礼者ヨハネの関連記事となります。

典礼色の紫は、ご存じのように待降節(Advent)と四旬節(Lent)で用いられます。

待降節ではクリスマスを、四旬節ではイースターを迎えるための悔い改めと懺悔の期節であるからです。と同時に、紫は高貴な色ですから王の尊厳を表す色でもあります。

この季節、なかなか紫の花が手に入らないということで、大分教会の生花では、カスピアという可愛い可憐な花が用いられていました。後で花言葉を調べてみたら、「変わらない心、変わらない誓い」というものでした。神様の人間を思う変わらない愛の心と、救おうとされる変わらない誓いの徴こそが、正にクリスマスの出来事だと思います。



大分教会の紫の典礼布は、十字架の周りに六つの星がちりばめられ、左右にアルファとオメガの文字、そして下に二つの蝋燭の灯りが描かれているものです。星はメシアである主イエスを示すダビデの星や、東方の博士達を導いた星を意味しているのでしょうか。でもなぜ六つなのかは分かりません。星といいキャンドルといい、待降節にお似合いのデザインだと思います。



もう一つは、日田教会の典礼布です。写真の色が悪いですが、こちらもきれいな紫です。

こちらは受難と復活をモチーフとしたデザインで、黄金の十字架の真ん中に茨の冠が置かれ、その荊冠を三等分する形で白色で釘が描かれています。これは主の手と足を釘づけた三つの釘を表現しているのでしょう。また十字の先端が三片に分かれているのは、復活のシンボルである百合の花でも表しているのでしょうか? それとも三位一体の神を表現しているのでしょうか。

個人的には、どちらかと言えばこの日田教会のデザインが好きです。今は、これを携帯の待ち受け画面にしていますが、これを見ると不思議と心が落ち着き元気が出るような気が致します。



待降節第1主日の説教は、下記にアップしていますので、どうぞご覧下さい。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/ayutaro/Message20111127.pdf

武蔵野教会での最後の聖研 [教会関係]

昨晩は、武蔵野教会での実習最後の聖研・祈祷会となりました。

生憎、大柴先生は九州に出張でしたので不在でしたが、ラトバラスク宣教師夫妻が会をリードして下さいました。ここ数年間はマルコ福音書を学んできていましたが、それも5月に終了し、前回は私が最後の担当としてパウロの生涯について語らせて頂きました。今回はヨハネ福音書4章のサマリアの女性の記事を通して、み言葉の恵みを分かち合うことが出来ました。

今回が最後ということもあり、皆さんと一緒に写真を撮らせて頂きました。毎回、聖書のみ言葉を通してそれぞれの人生に語りかけて下さっていることを、自由で楽しい雰囲気の中に分かち合えたことに感謝です。



武蔵野の聖研は8月が休みとなるので9月からの再開となります。次回からはローマ書を学ぶ予定となっています。私に代わってS神学生が本格的に実習を開始されますので、引き続きどうぞ宜しくお願い致します。


武蔵野教会での最後の説教 [教会関係]

今日は、武蔵野教会での最後の説教をさせて頂きました。

昨年は6月、9月、12月の3回、そして今年は説教学演習として、5/8, 5/22そして今日6/19の3回の合計6回させて頂いたことになります。
HPの方に、今年行った3回の説教を含め、いくつかの説教をアップしました。

http://www014.upp.so-net.ne.jp/ayutaro/Message_List.html

        
ところで、今日は三位一体主日ということで、説教も苦労したのですが、聖壇のお花は写真のように三色を用いたものでした。赤と白と緑。父と子と聖霊のどれがどの色を表しているのでしょうか。

いくつもの考え方があるように思います。例えば、緑は自然界で命を表すので創造主なる父、赤は聖霊の炎、白は御子の汚れなき心。他には、緑は聖霊降臨節の色なので聖霊を表し、赤は十字架での御子の血潮の色、白は栄光に輝く父の威光、などです。

今日のお花を活けられた方に、直接お聞きできなかったので、今度是非聞いてみようと思います。





昨日のイースター礼拝 [教会関係]

昨日は、土曜日の荒天が嘘のように、イースターを祝うかのような好天となりました。朝は、土曜日の風雨で教会の桜の木から落ちた萼の掃き掃除が大変でしたが、3名できれいにし、皆さんをお迎えすることが出来ました。



イースター礼拝には約150名弱の出席があり、午後3時から行われた東京バッハ・アンサンブルによるイースター・コンサートにも110名ほどの方が来られ盛況でした。

イースター礼拝では、1名の方の洗礼式と2名の方の堅信式、そして1家族と2名の方の転入式が行われました。そのため礼拝が二時間を超すものとなりましたが、とても喜ばしいイースターを迎えることが出来ました。



聖壇のお花も、イースターということで、いつもの説教壇と聖書朗読台の二箇所に加えて、聖卓の下にも左右二箇所に活けて下さいました。



説教壇の横のお花



聖卓のお花(正面)



聖卓のお花を横から写したもの



大柴先生がいつも、「牧師は神様のなされるドラマを最前列で見ることが許されている」と仰いますが、本当にそうだなあと思います。

昨日も聖壇の上で、洗礼式や堅信式、転入式に立ち会わせて頂きましたし、同じように結婚式や葬儀にも立ち会わせて頂きます。また司式や説教をする時にも、会衆の皆さんのお顔やお声と向かい合いながら立たせて頂きますが、その光栄と責任の重さも同時に感じる場でもあります。



説教学演習もあり、5月には武蔵野教会で説教を2回させて頂く予定です。そのための説教黙想を今週二つ仕上げなければなりません。(一つは今日まで、もう一つは水曜まで(;゜ロ゜))。更に別のクラスのレジュメも水曜までに準備しなければならず、今週もタイトな一週間になりそうです。



ということで、今晩は少し頑張らねばなりませんので、このへんで。

       


聖金曜日の受苦日礼拝 [教会関係]

今日は受難週の中でも最も大切な聖金曜日です。

午前中の授業では、旧約原典講読がありましたが、受苦日ということで、冒頭に詩篇22篇をヘブル語の朗読で聞きました。やはりヘブル語で聞く詩篇は格別ですね。

ところで、今日はルーテル教会でも、多くの教会で受苦日礼拝が持たれたことと思います。礼拝の時間は、以前は午後3時頃が多かったと思いますが、さすがに勤め人は、平日の午後に出席出来る方も少なく、そのため夜7時頃に持たれる所が増えているようです。カトリック教会では、午後と夜の両方にミサをしているところもあるようです。それだけ聖週間を大切に守っているのでしょう。

イースターの喜びは、四旬節、特に受難週をどのように過ごすかで、その大きさが変わるような気がいたします。受難週の歩みがなければ、枝の主日で、「ホサナ」の声でエルサレム入城された主イエスと、翌週に復活された主イエスの姿しか私達は知らないことになるからです。クリスマスが最も闇の深い冬至の期節が選ばれたように、イースターの復活の光は、聖金曜日から復活の朝までの闇の三日間をくぐり抜けた者だけが味わうことが許される喜びに他なりません。

さて、受苦日礼拝の持ち方は様々な形があると思います。

私が経験した中でも、「十字架上のイエスの七つの言葉」によるもの、長い受難物語を読むもの、受難物語の中でも特に主イエスの十字架上での最期の部分をとりあげるものなどです。また、讃美歌を多く歌うもの、沈黙の時を多く持つもの、音楽黙想をとりいれるものなど様々です。

今日は、午後に授業があったために午後3時からの武蔵野教会での受苦日礼拝には出席出来ませんでしたが、代わりに夕方に行われた三鷹教会の礼拝に出席しました。

武蔵野教会ではオルガン演奏が随所に置かれたオルガン黙想を取り入れた礼拝が持たれたと思います。
一方、三鷹教会では、ヨハネ18:1~19:42という長いテキストを20分くらいかけて丁寧に李先生が朗読されました。福音書、特に受難物語は全体を通して味わうことが大切だということを、今日改めてみ言葉に耳を傾けながら思いました。

皆さんは、どのような聖金曜日を過ごしておられるでしょうか?



「シメオンの讃歌」に差し込む光 [教会関係]

今日は一日、雨が降ったりやんだりの肌寒い日となりました。

昨日に引き続き、午後からはH兄の告別式がありましたので、神学校の授業は1限目の説教学演習だけ出席し、午後は欠席する旨を告げて、すぐに武蔵野教会に向かいました。

告別式はとても心に残る良い式で、教会員の方を中心に70名ぐらいが参列されました。

今回の前夜式、告別式の式次第ですが、H兄が生前から準備されていたものでした。ですから、讃美歌や聖書の箇所、そして略歴など全てが整えられていたのです。実際に司式や説教をする先生も大変助かりますが、残されたご家族にとっても、大きな慰めとなったことと思います。

昨日、H兄はルーテル教会の式文、特に罪の告白と赦しに大変心動かされたということに触れましたが、告別式で読ませて頂いた詩篇の箇所は、ダビデの罪の告白で有名な51編でした。礼拝の中では奉献の部で歌われる箇所でもあります。

ご自分の告別式で詩篇51編を、指定されるということは、本当にH兄の生涯を通して、罪と戦い、福音に生かされてきたという力強い証しであったと思います。

また、式の最後の部分でヌンクディミティス(シメオンの讃歌)を大柴先生が歌われましたが、丁度その時に、聖壇に置かれた棺に光が差し込んできたのを見た時に、鳥肌が立つような感動を味わいました。今日は、雨が降ったりやんだりで、日が差すことは少なかったのですが、正にキリストにまみえたシメオンの歓びが、天に召されたH兄の歓びと重なるかのように、光が差し込んできたのです。

このことは、棺の横にいた私だけが気づいたことだったようですが、本当に忘れがたい感動を与えて頂いたことに感謝です。

          「いま私は、主の救いを見ました。
           主よ、あなたはみ言葉の通り、しもべをやすらかに
           去らせてくださいます。
           この救いは、もろもろの民のために、
           お備えになられたもの、異邦人の心を開くひかり、
           み民イスラエルの栄光です。」


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