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谷川俊太郎 『昨日のしみ』 [その他]

昨日は8ヶ月ぶりにボイス・トレーニングを受けに出かけてきました。

いつものように、ひとしきりおしゃべりをした後に、発声練習、コンコーネと進み、最後は歌曲を何曲か歌います。以前は唱歌が多かったのですが、今回はなんと谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけたものでした。

詩のタイトルは『昨日のしみ』。以下に詩をご紹介しますが、何とも味わい深い詩ですねえ。


「昨日のしみ」 詞:谷川俊太郎  曲:武満 徹

まっさらみたいに思えても
今日には昨日のしみがある
すんだことさの一言を
漂白剤には使えない
涙をシャワーで流すだけ

からだの傷さえ消えぬのに
心の傷ならなお疼く
ごめんなさいの一言を
鎮痛剤には使えない
痛みをお酒で癒すだけ

思い出したくなくっても
忘れられない日々がある
明日があるよの一言を
ビタミン剤には使えない
希望は自分で探すだけ

曲がまたJazzyな感じで、肩の力を抜きつつ、詩のことばを大切に歌うことの良い練習になりました。
ほろ酔い気分でお風呂で歌いたくなる歌ですね(^_^)

どんな感じの曲を知りたい方は、下記のYoutubeで聞くことが出来ます。


わが家の金ちゃん逝く [その他]

一昨年、わが家の愛犬レイン(ゴールデンレトリバー)が15才で逝ってから、うさぎのロクと金魚の金ちゃんがわが家のペットでした。

金ちゃんは夏祭りの夜店で買ってきた金魚で、ロクよりも前から飼っていましたので、飼い始めて6年くらいになっていたでしょうか。
あまり丁寧に世話をしてもらっていなかったにもかかわらず、いつも元気で食用旺盛な金魚でした。
その金ちゃんが、一昨日なくなったというメールを娘からもらいました。
前夜既に瀕死の状態だったようで、心配していた矢先でした。
娘は、朝大泣きしてから、学校に行ったそうです。

どこかで見た俳句に、次の様なものがありました。

「 わが金魚 死せり初めて わが手にとる 」

魚は他のペットと違って、普段なでたりさすったりして、ふれあうことがありません。
この作者は、死んだ時にはじめて触れた金魚への様々な思いを、この句に込めたのでありましょう。
うちの娘も、亡骸を手のひらに載せて、何度もなでていたそうです。

金ちゃん、今までありがとう。


宗教改革主日 [その他]

昨日の聖日は宗教改革主日、そして今日10月31日は宗教改革記念日です。

聖卓の典礼色もこの日は、聖霊降臨節の緑から赤に変わります。
大分教会の緑の典礼布には写真でお分かりのように、三匹の魚が縫い付けられています。



魚は主イエスの供食の奇跡にも出てきますし、福音書では象徴的な意味で用いられています。
また、ギリシア語で魚をイクスースと言いますが、その頭文字をとって、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」の隠語として初代教会で使われていたこともあり、教会のシンボルとして良く用いられるものです。また、三匹の魚と三つの光輪は三位一体の神を表現したものではないかと思います。



一方、赤の方ですが、これは図象的に凝っていますねえ。
真ん中に十字架を表すと共に、ギリシア語のキーとローが隠されていて、これはキリストを意味しています。
十字架の直ぐしたには、これはハッキリとギリシア語のアルファとオメガ、すなわち「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」という黙示録21:6の言葉が描かれています。
そして、一番下のなみなみと十字架の下にある錨は、キリストの教会がこの世の荒海の中で箱船のような救いの象徴であることを示しているのではないでしょうか。
また、錨はキリストの平安を表している気が致します。ヤコブの手紙1:6~8の言葉が思い浮かびます。
「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」

また、昨日の大分教会の生花は、典礼色の赤を意識して赤いガーベラが用いられていました。
いつもご奉仕下さるA姉に感謝!


「よだきい」 でも、生きる [その他]

大分弁の「よだきい」という言葉をご存じでしょうか?

これは、「面倒くさい」「億劫」「疲れた」という意味で使われます。
数ある大分弁の中でも、言葉のニュアンスや情感において横綱級の方言だと私は思います。

平和園の子ども達もよく使う言葉で、私も何度も耳にしては思わずおかしくなってしまいます。
平和園では別府大学の荒金先生のご協力の下で、長年「書のあそび」の時間を持ってきました。そこで作成された作品をながめていたら、下の写真のような書を見つけました。




中学生の、ある女の子の作品です。
これは、文字だけでなく、是非写真で見てもらいたいと思いました。

児童養護施設に入るような家庭環境の中で、思春期を迎える子ども達にとっては、まさに「なんでも よだきい」に違いありません。しかし、そのような生き苦しさの中で、「でも生きるぞ」と語る言葉には、人生に立ち向かう決意が溢れています。

詩篇68編の20節には、
  「主をたたえよ
     日々、わたしたちを担い、救われる神を。」   と新共同訳ではあります。

口語訳では「わたしたちを担い」ではなく「われらの荷を負われる主」と訳しています。
私達が日々負っている重荷。独りで負うには「よだきい」ものです。しかし、その重荷ごと私達を背負って下さるお方がいるのです。そのことに気づかされ、主を讃えることが出来る人こそ幸せではないでしょうか。

「よだきい」 でも生きる! 平和園の子ども達一人一人の上に、神様の祝福が豊かに与えられますように祈ります。


タグ:別府平和園

10/16の説教黙想から [その他]

先週に引き続き、10/16にも説教の機会が与えられました。
福音書の日課はマタイ21:33~44「ぶどう園の農夫の譬え」の箇所です。

テキストの黙想の中で様々な気づきが与えられましたが、今回特に新たに示されたのは、ぶどう園の主人(神様)が農夫達にぶどう園を託して「旅に出た」という意味でした。
この「旅に出た」と訳されている言葉には、「外国に行く」という意味もあります。
ですから、この語を距離的な関係と捉えれば、神が私達に全てを委ねて、「敢えて離れておられる」という現実の中に生かされていることが分かります。

ドイツの神学者ボンヘッファーは「神なしで生きる」という文章の中で次のように語っています。
「僕たちと共にいたもう神とは、僕たちを見捨てたもう神なのだ。(マルコ15:34)
……中略……   神の前で、神と共に、僕たちは神なしに生きる。
           神はご自身をこの世から十字架へと追いやりたもう。
           神はこの世においては無力で弱い。
           そして、神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、
           僕たちのもとにおり、また僕たちを助けたもうのである。」

旧約の預言者エレミヤもまた次の様に言っています。
23:23「わたしはただ近くの神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。」

敢えて遠くにおられる神。しかし、それは私達人間を見放したり見捨てたりしたからではありません。そこには超えがたい溝、いや断絶があるのです。その断絶を回復するために主人の一人息子が農夫達のもとへと送られたのです。
そのような神様の思いを説教で語らせて頂きました。原稿を下記にアップしましたので、興味のある方はご覧下さい。

http://www014.upp.so-net.ne.jp/ayutaro/Message20111016.pdf


10/9の説教黙想から [その他]

10/9のルーテル教会の福音書の日課は、マタイ20:1~16にある「ぶどう園の労働者の譬え」です。
今回は初めて日田教会で説教をさせて頂くのですが、明日がルーテル幼稚園の運動会ということもあり、明日から泊まりがけでお邪魔することになりました。

今日は、説教黙想で与えられた考えを、少しご紹介します。
9節の箇所です。「そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。」

この最後の者達は、報酬を得る約束のない者、権利を主張出来ない者、一日仕事が与えられず弱く疎外された者達でした。
この箇所が語源となった英語のイディオムで"(at the) eleventh hour"というのがあります。「土壇場、ぎりぎりで」という意味です。この言葉に表されるように、救いの出来事は、人間的な状況では絶望的と見える土壇場で行われる神の業なのです。

話は変わりますが、黙示録の21:13には、東西南北に各三つの門があり、合計で十二の門が新しいエルサレムにはあることが記されています。これは労働者が働いた、朝6時から夕方6時までの十二時間と考えることが出来ます。朝日が差し込む東の門からは、最初の者達が御国へと招き入れられたことでしょう。同じように、9時、12時、15時の者達も入り、そして最後の者達は西日がかかる西門から、同じように新しいエルサレムの都へと招き入れられたのです。
入る門は異なっても、キリストと出会う時期が異なっても、みな主の御許へと招いて下さる。それが全ての者に与えられた一デナリの意味だと思うのです。


イスラエルで「無宗教」が認められた判決 [その他]

いやー、この記事を読んで初めて、イスラエルが国民を宗教と民族籍で登録しているということを知りました。と同時に、憲法の人間の尊厳の権利によって「宗教からも解放される」という判決には、無宗教?を自認する日本人には驚きですね。この判決を機に、イスラエルでも「無宗教」者が増えるのでしょうか。強制された信仰は、拷問に近いものがあるでしょうから、当然と言えば当然の判決ですが。。。

世界の宗教弾圧が増加傾向に [その他]

世界の宗教弾圧が増加傾向にあるとの統計報告です。
特に政府からの迫害は中東や北アフリカで多いとのことですが、先進国での宗教対立も世界不況と絡んで深刻化していると思われます。宗教問題は民族問題や政治とも絡んで単純ではないだけに、このような調査結果もどう受け止めるか、受け止める側の感性も問われるような気がします。

遺体安置所から復活!? [その他]

家族が勝手に死んだと思って、葬儀屋に連絡し、遺体安置所に運ばれた男性が、翌日目を覚ましたというニュース。日本では死亡診断書が必要なことは葬儀屋さんは熟知しておられるのでこんなことは起きないでしょうねえ。幽霊だと思った職員さんも気の毒ですね。誰でもビックリすると思います、この状況は……


イエスの十字架の釘が発見 [その他]

明日から受難週ですね。

受難週に合わせるかのようにタイムリーなニュースを見つけましたので紹介致します。

内容はイエスを十字架につけた時の釘が見つかったというものです。
見つかった場所は、何と当時の祭司長だったカイアファの墓の中であったというのです。まあこの手の話は検証が難しいので真偽のほどは定かでありませんが、研究者の説の一つに、カイアファはイエスを十字架につけたことの罪悪感に苛まれ、後悔していたのではというのがあります。また密かにイエスを信じるようになっていたというのもあるそうです。

バラバやクレネ人シモン、そして百卒長、受難物語に登場する多くの人物達のその後については、多くの芸術家が関心を示しています。福音書は使徒言行録も含めて、ある意味オープンエンドであり、その後の物語は一人一人が綴っていくということを深く思わされます。


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