10/16の説教黙想から [その他]
先週に引き続き、10/16にも説教の機会が与えられました。
福音書の日課はマタイ21:33~44「ぶどう園の農夫の譬え」の箇所です。
テキストの黙想の中で様々な気づきが与えられましたが、今回特に新たに示されたのは、ぶどう園の主人(神様)が農夫達にぶどう園を託して「旅に出た」という意味でした。
この「旅に出た」と訳されている言葉には、「外国に行く」という意味もあります。
ですから、この語を距離的な関係と捉えれば、神が私達に全てを委ねて、「敢えて離れておられる」という現実の中に生かされていることが分かります。
ドイツの神学者ボンヘッファーは「神なしで生きる」という文章の中で次のように語っています。
「僕たちと共にいたもう神とは、僕たちを見捨てたもう神なのだ。(マルコ15:34)
……中略…… 神の前で、神と共に、僕たちは神なしに生きる。
神はご自身をこの世から十字架へと追いやりたもう。
神はこの世においては無力で弱い。
そして、神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、
僕たちのもとにおり、また僕たちを助けたもうのである。」
旧約の預言者エレミヤもまた次の様に言っています。
23:23「わたしはただ近くの神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。」
敢えて遠くにおられる神。しかし、それは私達人間を見放したり見捨てたりしたからではありません。そこには超えがたい溝、いや断絶があるのです。その断絶を回復するために主人の一人息子が農夫達のもとへと送られたのです。
そのような神様の思いを説教で語らせて頂きました。原稿を下記にアップしましたので、興味のある方はご覧下さい。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/ayutaro/Message20111016.pdf
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