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内村鑑三の好きな秋の花 [読書]

先ほど紫の典礼色のことについて書いていて、思い出しました。
内村鑑三は、秋の花としては紫りんどうが好きだと、彼の著書の中で語っていました。

と言っても、昔から好きだった訳では無く、内村の愛唱していた米国詩人William Cullen Bryantの「紫りんどうに贈る Blue blue as if that sky let fall」に共感する出来事を、経験してからだと語ります。

下の訳文は、内村自身が訳出したものです。彼の共感がいかに大きいものであったが伝わるような見事な訳文だと思います。




汝、秋の露をもって輝く花よ、
空天(そら)の色をもって彩飾(いろどら)れて、
汝は皮膚(はだえ)にしみわたる寒き夜に、
静かなる日が次いで来る時に開く。

汝はすみれが小川と泉の辺(ほとり)に、
首(こうべ)を垂れる時に来たらず、
又おだまきが紫衣を着て、
巣鳥の床によりかかるときに開かず。

汝は待つこと遅くして、独り来る、
林は枯れて鳥は飛び去り、
霜と短き秋の日とが、
冬の近きを告ぐる時に来る。

その時汝の優さしき静かなる眼は、
紫の袖をかざして空天(そら)を望む、
その蒼(あお)きこと、あたかも蒼き空天が、
その天井(てんじょう)より花を落せしが如し。

余は望む余も汝の如くに、
死の期(とき)が余に近づく時に、
希望は余の心の中に咲いて、
世を逝(さ)りつつも天を望まんことを



そして、内村はさらにこう記しています。

「余がこの詩を読んでから一カ年の後であった。晩秋の頃・・・甲武鉄道、中野ステーションに近き楢林の中において余は計らずも枯葉の中に、余のかねてより敬慕せる余の秋の友人なる紫りんどうに遭遇した。余は暫時の間、彼の育成の地において彼を見詰めた。余はあまりに慕わしくして、彼に手を触れえなんだ、余は即座にブライアントのことばを原語のままにて唱えた、

Blue-blue-as if that sky let fall, その蒼きこと恰かも蒼き空天が
A flower from its cerulean wall. その天上より花を落せしが如し

余は彼と別るるに忍び得なんだ、しかしまた来ん秋を楽しんで彼を林中に遺し去った……紫りんどう! 彼が余の愛する秋の花である。山茶花ではない、菊ではない、彼らは余の死ぬ時には何の慰藉にもならない、彼らは現世の栄誉に止まる、彼らは天国の希望を供する者ではない、謙遜にして柔和なる春の花なるオダマキに対する堅忍不抜なる希望を伝うる秋の花なる紫りんどうである、この雌雄ありて人生は悲哀ばかりではない、我らは彼らを友として喜びながらこの涙の谷をとおることができる。」

ここまで読まれれば、内村が好きだった春の花が「おだまき」であったことが分かりますね。(^^)
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