SSブログ

カトリック教徒用アプリ「i懺悔」 [読書]

少し古い記事ですが、今年の四旬節(受難節)に入る前に、次のようなNewsがありました。

 

ご存じのようにカトリック教会では、7つのサクラメント(秘蹟)の一つに告解(懺悔)を挙げています。カトリック教徒は年に最低一度は告解を行う義務があり、それはイースター前の四旬節が適当であるとされています。

 告解はよく映画などで見られるように、聖堂の隅にある告解室で聴聞司祭に対して行うものですが、霊的カウンセリング的な側面もあります。自分の犯した罪を、自分の中にだけ抱え込まず、誰かに聞いてもらい、赦しを与えてもらうということは人間に必要なことです。プロテスタント教会はこれをサクラメントから外し、軽視してしまったことは、精神性・霊性において大きな損失であったと個人的には思っています。

 今回のニュースは、この告解を携帯電話のアプリでやってしまおうということです。IT全盛の時代ですから、出るべくしてでた!という感じですね。アプリの作者も不信心にというのではなく、逆に現法王のメッセージを自分流に理解して行ったのですから、ある種のジレンマがあり、単純な問題ではないと思います。作者は「デジタル技術を通じてカトリック教徒たちの信仰を支援することだ」と説明しているそうです。

さすがに教皇庁では、このアプリは認められないという公式声明を発表しています。ルターも最終的にサクラメントを洗礼と聖餐の二つに定める前に、告解もサクラメントに準ずる大切なものであると考えていました。しかし、カトリック的告解とルターの考える福音的告解には決定的な違いがあります。それは「福音的告解においては、ゆるしは賜物であり、賜物以外の何物でもない。人間はそれを獲得するために何事もすることはできない」という徹底的なキリストの恵みと主権です。 

ボンヘッファーは「罪の告白において、交わりへの通路が開かれる。……罪は、その人を交わりから遠ざける」と語っています。ルーテル教会では開会の部で罪の告白を行いますが、それは正にこの交わりへの招きをも意味していると思うのです。
そして彼は続けてまた、「罪の告白において、十字架に至る通路が開かれる。」「罪の告白において、新しい生命に至る通路が開かれ……、確かさに至る道が開かれる」と語るのです。

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。