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親鸞について [読書]

梅原猛のエッセー『親鸞について』を読んでいる。

親鸞とルターは良く比較される宗教者であるが、次の文章を読んでいて改めてそれを感じた。
多少長くなるが、梅原氏の文章そのものがまた素晴らしいので、そのまま引用したい。

「増谷文雄氏は、親鸞を挫折の人と呼んだが、私もそうだと思う。彼は法然のような明敏な頭脳も、道元のようなきびしい禁欲精神も、日蓮のような救国の熱情をももたない人であった。すべてにおいて、彼はそういう積極的な能力をもたなかったが、彼が誰よりも強くもっていたのは、裸の自己反省の心であった。彼は、少しばかりの己の心の不純にも耐えられなかった。少しの偽善も彼は許すことができず、自己と人間にたいして絶望しつつ、己の罪の呵責に身ぶるいしたけれど、同時にそういう罪人の中の罪人である自分が、阿弥陀という大きな光の仏につつまれて救われたという歓喜に感謝の涙を流したのである。」 (『日本の名随筆 13心』所収 p.147)

「法然の著作は、論理的である。彼は抜群の頭脳の持ち主であったにちがいない。それに対して親鸞の著作は、けっして論理的ではない。しばしばそれは、不必要に、晦渋である。論理的に混乱しているところだってある。しかし、彼の著作はすべて信仰告白の書なのである。論理的整合性などはどうでもよいことにちがいない。ところがその一見晦渋な文章から、光が輝いてくるのである。深い絶望に臨みつつ、阿弥陀の光で救われたという、真摯で大胆な信仰の心が、あらゆる彼の文章からひびいてくるのである。」 (上掲書 p.151)

「裸の自己反省の心」や「罪人の中の罪人」という意識は正に、ルターやパウロに見られる神学的洞察に他ならない。
またルターもカルヴァン等に比べると論理性や組織系統だった論述が少ない。所謂「状況神学」的傾向が強いが、梅原氏が親鸞について述べているように、信仰告白的文書と言いうる力と光と慰めが響いてくるのである。

 

 


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