SSブログ

『親鸞』を読み終えて [読書]

夕べ、一気に『親鸞(下)』を読み終えました。

法然及び親鸞の説いた専修念仏がよく分かる、読みやすい小説でした。
親鸞という名前になるまでに、範宴→綽空→善信と三度名前を変えていたことは、今回初めて知りました。改名とともに、新たに生まれ変わっていくような経緯がドラマチックでもありました。
小説が親鸞と名を改め、越後に流刑になるところで終わっていますが、それだけでも著者の意図が十分伝わってきました。と同時に、時間を経て、続篇を書いてくれればとも思っています。

また、よく言われることですが、親鸞とルターの類似性を改めて深く思わされました。
親鸞には法然という師との出会いがありましたが、ルターもシュタウピッツとの出会いが、聖書と福音に対して目が開かれる重要な契機となりました。選択本願念仏集に記された過激なほどの内容は、ルターの「信仰のみ」に相通じる激しさを持っています。

下巻の中で、心に残った一節をいくつか紹介致します。

「そしてこの世のあわれな者を一人残らず救うぞ、という阿弥陀仏の誓いを、本願という。そのみ仏の本願を信じて、思わず体の奥からもれでる声、それが念仏というもの」 

「真実の言葉を語れば、かならず周囲の古い世界と摩擦をおこすものです。できあがった体制や権威は、そんな新しい考え方や言動に不安をおぼえることでしょう」

「念仏とは、自分でとなえるものではない、弥陀からいただいた念仏じゃ、……、名前を呼ばれて、はい、と答えるのが、本当の念仏」

「わたしが求めているのは、よく死ぬことではない。重い闇をかかえて、それでもなお歓びにあふれて生きる道だ」

「念仏を口にすることはやさしいが、信がともなっての念仏である。……。まして自力の信ではなく、仏の側からさしのべられた信である。その信を歓ぶ、というところまで達するには、上人がふだんいわれているように、徹底して愚かな自己に還るしかない。智者のふるまいをせず、俗にまみれ、自己の煩悩の深さをまっすぐにみつめるときに、本当の信がうまれるのだろう」

このように見てくると、正にパウロやルターの言葉と重なる部分が多いことが分かります。
しかし、決定的な違いはキリストの十字架がない、ということです。そして、この十字架こそが神の痛みであったということを思います。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。