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ナウエンの受難節の黙想から [読書]

今日は大柴先生が甲府・諏訪教会に、新任の市原悠史牧師の就任式のために出張されたので、賀来先生と共に留守を守らせて頂きました。 

そのため、礼拝前には「やさしく聖書を学ぶ会」で旧約聖書のイスラエル王国分裂のお話しをし、礼拝では司式、礼拝後の女性会(サフラン)では主の祈りについてお話しさせて頂きました。また夕礼拝もありましたので、一日を通して様々な奉仕を経験させて頂いた日となりました。 

明日はいよいよ、神学校の新年度のスタートで、オリエンテーションが行われます。新入生を交えて、今年一年の学びの計画を皆で話しあうことになっています。

 さて今晩は、ナウエンの受難節の黙想集からの今日の日課の一節を紹介致します。 

「心は、人間であるわたしたちの中心にあります。そこにこそ、わたしたちのもっとも深い思考、直感力、感情そして決断の源があるのです。しかし、みずからをもっとも疎外しがちなのもまた、その心なのです。わたしたちは自分の心をほとんど理解しません。心を恐れるかのように、わたしたちはそこに近づかないようにしています。もっとも親しいものがまた、わたしたちを何よりも脅かすものでもあるのです。もっとも自分らしいところで、自分自身にとって不可解な存在になってしまいます。そこが、人間であることの痛ましいところです。…………
霊的生活の不思議は、次のようなことです。イエスは他から離れた心の中で私たちに会い、そこでご自分の愛を理解させ、恐れから解放し、心の内奥にある自己を分からせたいと願っておられるのです。ですから、心の中でひそかにイエスを知るだけでなく、イエスを通して自分自身を知ることが出来るのです。」

 昨年の9月から12月にかけて行った、病院での臨床牧会訓練で学んだことが、正に上記のナウエンが語っているような内容でした。これを読みながら、そのことを改めて思い起こしています。 

下の写真は、武蔵野教会の今日のお花です。

 

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